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マイケル・J・フォックスから知った米国社会の現実――翻訳家 入江真佐子さん(Business Media 誠)

 『ダイアナ妃の真実』やマイケル・J・フォックスの自叙伝『ラッキーマン』『いつも上を向いて』など数々のノンフィクションの翻訳を手がける入江真佐子さん。翻訳家という仕事の醍醐味、そして必要な資質とは?

【拡大写真や他の紹介写真を含む記事】

 映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」(全3部作)や「摩天楼はバラ色に」、テレビシリーズ「ファミリー・タイズ」「スピン・シティ」をはじめとする数多くのヒット作で知られるハリウッドスター、マイケル・J・フォックス。しかし、人気絶頂だった1990年、不治の難病パーキンソン病を発症。長い煩悶の期間を経て、1998年にこれを公表し、2000年には芸能界をセミリタイアした。現在はマイケル・J・フォックス財団を設立して、パーキンソン病の治癒方法発見に向け、進行する病と闘いながら精力的な活動を展開している。

 この経緯を彼自らが口述筆記で描いた著作が、“Lucky Man”と“Always Looking Up”であり、いずれも発売されるや米国全土で大きな反響を巻き起こした。その後日本語にも翻訳され、『ラッキーマン』(2003年)に引き続き、『いつも上を向いて 超楽観主義者の冒険』が今春、発売され、早くも話題となっている。

 そこで今回は、両著作の日本語訳を担当された翻訳家の入江真佐子さんにお話を伺った。前回は、マイケル・J・フォックスの波乱に満ちた半生をご紹介したが、後編に当たる本記事では、入江さんご自身の彼の著作を訳出するに当たっての苦労話、そこから垣間見えてきたハリウッドや米国社会の姿、そしてまた、日本で意外と知られていない翻訳家という職業の実相などについてお聞きしてみた。

●マイケル・J・フォックス「ラッキーマン」はなぜ日本で成功したのか?

 前作『ラッキーマン』の日本語訳は、単行本と文庫を合わせて30万部を超える大ヒットとなったという。プロモーションの成功ということ以外に、どんな要因が考えられるだろうか?

 「正直言って、当初、そんなに売れるとは思っていなかったんですよ(笑)。当時、すでにマイケルはハリウッドスターとしては、第一線を去っていましたからね。でも、かつて映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』やテレビ・シリーズ『ファミリー・タイズ』などを通じてマイケルのファンになっていた人たち(多くは35〜45歳くらいの女性層)が『ラッキーマン』の読者になってくれたんです」(入江さん)

 この成功の要因として、私は、入江さんの訳文の、日本語としての正確さや美しさもあるのではないかと感じる。はっきり言って、翻訳物には日本語として読みづらいものが少なくない。日本語として意味が通らないような文章もよく目にする。それゆえ、翻訳物はあまり読まないという人々もいるくらいだ。

 しかし、「ラッキーマン」の日本語訳は、翻訳物であることを、しばしば忘れさせてくれる。これもまた読者を増やした要因ではないだろうか? 「ありがとうございます。私としては、正しく、分かりやすい日本語にすることを心がけています。しかし同時に、原著者の味や個性をいかに生かすかという点も大事だと思うんです。分かりやすいだけではダメで、この両者のバランスをいかに取るかがポイントだと思いますし、そこが翻訳の難しい点です」

 このたび日本語訳が出版された『いつも上を向いて 超楽観主義者の冒険』は、いかがだったのだろうか?

 「今回の著作では、医療の専門用語はもちろんですが、マイケルが政治や宗教について深く掘り下げていることもあって、長年、米国に住んでいる人でなければ分からないような固有名詞が多く、難しかったですね。自分自身が分かっていない内容を機械的に日本語に置き換えても、読者にはまったく理解できません。そこで、米国人のエキスパートに原書を読んでもらってアドバイスをもらったり、その事象のバックグラウンドをリサーチしたりして、翻訳にかなり時間がかかりました」

 たしかに、同書を拝読すると、米国社会の知られざる側面を、日本人読者に正確かつ分かりやすく伝えようという入江さんの配慮が垣間見られる。

●日本人の想像を超える米国社会の“現実”

 ハワイ、西海岸、ニューヨークなど、旅行する機会も多い米国という国について、われわれ日本人は、それなりに理解しているつもりになっている。けれども今なお、日本人にはなじみにくい側面が数多く存在するということだ。

 しかし難しいのは、そうした固有名詞だけではない。米国の有力者の言動や、それに対する社会の反応についても、日本人には想像もつかないようなエピソードがある。

 「(『いつも上を向いて』の中に)トークショーの司会者、ラジオパーソナリティとして有名なラッシュ・リンボーが、テレビ番組の中で、体を震わせたり、クネクネさせるなど、マイケル・J・フォックスのパーキンソン病の症状を面白おかしく真似てバカにするシーンがあります(参照リンク、YouTube)。これは、マイケル個人やその家族だけでなく、パーキンソン病の患者さん全体を愚弄し差別する行為ですから、こんなことをテレビ番組の中でやったとなれば、日本では大問題になるはずです。

 日本の有名男性キャスターが人気情報番組の中でそんなことをするのを想像すれば分かりますよね。間違いなく、番組は降板となるばかりか、テレビ界への復帰も難しいでしょう。ところが、ラッシュ・リンボーはその後も平然とマスメディアに登場し続け、マイケルへの攻撃を行っているのです」(入江さん)

 宗教問題が絡んでくると、さらに話は理解し難い様相を呈してくる。キリスト教の福音派(エヴァンジェリカル)は、全米に3000万人の信者がいると言われている。ハイヤー・ディメンションズ教会の創設者として5000人の信者を擁していた主教カールトン・D・ピアソンは、ABCニュースのインタビューに答えて、自分の人生を変えた啓示について、次のように語った。

 「ルワンダ難民の悲惨な状況を見ていて気がついた。人は死後、地獄に落ちるのではない。死後の地獄などないのだ。今生きて置かれている状況こそが地獄なのだ」と。ところが、この発言は神への冒涜とみなされ、ピアソンは、すべての社会的地位を失ってしまう。彼の信者も一斉に去った。

 その一方で、ピアソン糾弾の先頭に立った全米福音協会・会長のテッド・ハガードは、ゲイ同士の結婚を厳しく禁止していながら、自らは、密かにゲイから金銭授受を伴う性的なサービスを受け、さらにはその関係者から覚せい剤を買っていた。そしてそれが発覚しても、テッドには宗教的に全くおとがめがなかったという。

 「こういった点も、日本人には、なかなか理解できない部分だと思います」(入江さん)

●翻訳家としての醍醐味とは?――トリイ・ヘイデンとの出会い

 さてここで、入江さんのプロフィールについて伺ってみたい。

 「1953年生まれ。語学が好きだったので、国際基督教大学(教養学部・社会科学科、人類学専攻)に進学しました。卒業後は、翻訳権のエージェントをやっている会社に就職しました。仕事柄、日本の出版各社とのつながりもありましたし、職場には、実際に翻訳をやっている上司もいて、翻訳家という職業が身近に感じられましたね。この会社は3年ほどで退職し、1年ほど海外生活を経験して、帰国後、結婚しました。翻訳を始めたのは、そのあとです」

 最初の仕事は、ハーレクインシリーズ。1982年ごろから数年間で10冊以上を翻訳したという。

 「これは、私にとっては修行の期間でした。ハーレクインロマンスの日本語版というのは、すべて、ページ数が最初から決まっているんです。原文をそのまま翻訳していたのではページ数がオーバーしてしまいます。それで、ストーリー展開を不自然にしないよう配慮しつつ、あちらこちらをカットして翻訳し、最終的にぴたりとページ数を合わせるのにずいぶん苦労しました」。

 ここでの仕事ぶりが評価されて、早川書房を紹介されたという。青春小説を担当した後に入江さんを待っていたのが、アンドリュー・モートンの『ダイアナ妃の真実』。たいへん話題になった本なので、ご存知の方も多いことと思う。

 翻訳家としての評価を確立した入江さんは、やがて、翻訳家人生の代表作となる作品と出会う。

 トリイ・ヘイデンの作品群だ。彼女は、1951年、米国モンタナ州生まれの教育心理学者で、情緒障害や行動障害をもつ子供たちを現場で指導しつつ、その経験をノンフィクション作品として発表し続けている。『シーラという子―虐待されたある少女の物語』、続編である『タイガーという子―愛に飢えたある少女の物語』をはじめ、その作品群は、世界各国で広く読まれている。

 「おかげさまで、『シーラという子』は日本でも大きな反響をいただきまして、それ以降、トリイ・ヘイデンの作品を翻訳する機会に恵まれたんです。結局、全部で11冊になりました。それだけではありません。日本語版の発売にあわせて、彼女自身も来日し、お会いする機会を持てたんです。以後、何度か来日し、一緒に旅行もしました。私と誕生日も一緒で(笑)、以来、お友達というか、ずっと親しくさせていただいています。まさに翻訳家冥利に尽きる出来事ですね!」(入江さん)

 翻訳家としてのキャリアは、早25年以上。そうした入江さんの円熟味を堪能できる最新作が、『いつも上を向いて 超楽観主義者の冒険』である。

●翻訳家として求められる資質とは?;

 最後に、翻訳家として必要な資質についてお聞きしてみた。

 「外国語の能力は、もちろん必要です。しかし、それ以上に大切なのは日本語力だと私は思います。なぜなら、元は外国語であったとしても、それを日本語で出版するのですから、肝心の日本語が、正しくそして分かりやすくないと話になりません」

 では、日本語力を高めるためには、どうしたら良いのだろうか?

 「日本語の能力は、若いころからの読書量に比例すると思います。それも、幅広くいろんな分野の本を読んでいる方が良いですね。広く浅くでも良いので、広範囲にわたって知っていれば、それに越したことはないと思います。

 というのも、入ってくる仕事はさまざまです。いろいろな分野の用語や事柄に遭遇します。それを翻訳してゆくに際して、調べるとすれば、どこでどうやって調べたらよいか、ということが、そのたびごとに分からないと、翻訳家としてやってゆけないからです」

●好きだからやっていける

 長年にわたって翻訳家として継続的に仕事してゆこうと思った場合、特にどんなことが必要になるのだろうか?

 「1冊の本を翻訳するのに要する時間は、私の場合、特に急ぎでないときは、1カ月あたり原書100ページが目安です。ですから、たとえば300ページの本なら、ざっと訳すのに3カ月程度はかかります。それから推敲し、修正を加えて原稿を確定させるまでにさらに1カ月くらいはかかります。今回の『いつも上を向いて 超楽観主義者の冒険』ですと、さきほど申し上げたような理由で、もっと多くの時間がかかっています。

 それだけの労力を用いても、一般に、翻訳物は、初版の部数が概して少ないですし、滅多に増刷もされません。要するに、お金のことだけを考えるならば、ペイしにくいということです。翻訳だけで生活してゆくのは、なかなか大変です。『好きだからこそやっていける仕事』ということが言えるのではないでしょうか?」

 入江さんは、これまでの翻訳家人生において、仕事を得ようと、自分から出版社に営業をかけたことはないという。若い頃から、自分の人生の方向性を的確に見出し、自然の流れの中で、無理なく、楽しみながらお仕事をされているようにお見受けする。この先も、きっと素晴らしい翻訳を世に出してくださることだろう。

 まずは、最新作、マイケル・J・フォックスの『いつも上を向いて 超楽観主義者の冒険』の成功をお祈りしたい。【嶋田淑之】

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